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随想録1979

鋳物一筋40年

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昭和14年春、小学校卒業と同時に鋳物の道に踏みこんでもう40年。 人生のすべてをかけて鋳物をつくって来たことになる。

造型し木型を抜いた後、赤々と煮えたぎった1,500度からの溶鉄を流し込む。 そして鋳物砂をふるい落し成品を見る時の胸のときめき。 少年期、私には銑がこれほどダイナミックで美しく動き思い通り造型されるとは夢にも思わなかった。 「これは、おもしろい」、当時13才の私は、この強烈な印象から鋳物のとりこになってしまった。

家が貧しく小学校を終えて働きに出ることになった。 近くに兄が奉公中の足利で一番古くから営んでいた川又鋳物工場、もちろん丁稚奉公である。 腕が良く大変恩情味のある親方に仕えることが出来たのも幸運だった。 当時は兵隊検査までは丁稚奉公するのが一般の例でもあった。 奉公に行く日、母が弟達と心ばかりのお祝いをしてくれた。
「辛くても我慢して、みんなに可愛がられるんだよ」と幼い私を励まし、そっと涙を浮かべていた苦労人の母。 「大丈夫だよ」と空元気に答えたことを今でもはっきりと覚えている。 7人兄弟の次男坊に生まれ、この頃が一番貧乏のドン底だった。

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13才の春、父に連れられて親方の家に行ったのが私の鋳物人生の第一歩である。 最初から何ドンと言われるのがことの他いやであったのと、当時兄弟子達が多く、寝るところもなかったのが幸して、初めから通勤にしてくれた。 いくらかの給料取りになり貧乏のたしにもなった。 だが丁稚扱いは変らない。 朝は6時に出勤して掃除したり兄弟子達が仕事にすぐかかれるように仕事場の段取りから朝は特に忙がしかった。 その頃の鋳物工は真黒になって毎日を追い廻され、コシキ炉の補修、材料の仕込み、使い走り、成品の仕上げ、納品も荷車・リヤカーを使って配達して目まぐるしかった。 朝7時から夜7時までが定時間、日一ぱい一生懸命働き、仕事については先輩達は何も教えてくれず、見て覚えろと拳骨だけはよく戴いた。 昼間そっと見ておいた作り方を定時を終えて誰にも見つからないようそっと石油ランプの下で夜遅くまで習い覚え、隠れて腕を磨いたものだ。 近所のおばさん達が時々見かねてよく食べ物を差し入れ、頑張るんだよと励ましてくれた。 うれしかった、うまかった。 修業時代に覚えた人の情と思いやりである。 今と違って、もちろん残業手当などもらえるはずもない。 厳しかった鋳物の造型に抗しきれないでいた頃、同じ年頃の人達はめぐまれていて、ほとんど上級学校に通っていたが、私は別につらいとも悲しいとも思わなかった。 今に見ていろ親方になってと強い意志と堅い信念があったからかも知れない。 時間を気にせずガムシャラに働き腕を磨く一方、少しでもゆとりが出来ると本を読んだ。

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16才の時、早稲田の中学級講義録を取り寄せ勉強もした。 今の通信教育になるのかな。 将来はきっと鋳物屋の親方になろうと人生の指針をはっきり見定めていた。 夜学にも幾日か行き始めたが、支那事変から世の中は大東亜戦争と戦が次第に拡大し、兄弟子達も兵隊に取られて行くようになったので、勉強も出来なくなりあきらめた。 今になって心残りで将来のため大きな損失であった。 そんな時代、工場も共同化し毎日増産、仕事量は増大すると共に、お蔭で腕も上達、戦争のお蔭で苦しさ、貧しさは人一倍会得できた。 そんな時代昭和20年春、私にも応召が来て宇都宮の連隊に入隊した。 そして戦争も負け戦になり、この年8月終戦を迎え帰郷した。

鋳物を造りたい、そんな執念から鋳物を忘れることが出来ず、早速親方の所へ行ったが戦争に疲れたのか「もう鋳物屋をやる気がない」と言われがっかりした。 無理もない日本中が戦争の傷跡が深く、衣食住に全く事かく現場では何をしてよいかみんな迷い困っていた時代だった。 私もひと先づ時期を待つことにして食うために衣類の行商やら闇物資の売買と手当り次第何でも見つけて働いた。

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