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随想録1979

鋳物一筋40年

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目的も希望もない毎日を送っていた頃戦後初めて復活したのがアルミ鋳物であった。 溶解も容易で簡単な設備と砂を使い造型出来た。 誘いのあった何軒かの鋳物工場を手伝ううちに自分でもやってみる決心をし幸いその頃親父が染色加工業を営んでいたので、工場の一部を利用して早速兄と共同でアルミ鋳物を始めた。 家庭金物から織物、プレス、農機具等の部品を作った。

品物のない時代だったので何を造っても良く売れたものだ。 しかし食う物がないので米やカボチャ、イモ類と交換し味気ない商売だった。 今では考えられない暮し、笑うかも知れないがそれほど食う物がなかった時代、いかに苦しかったか想像出来ると思う。昭和22年結婚。

小倉プレス工場で鋳造部を新設するので是非責任者でとの要望があって勤めたが、この年秋の台風で渡良瀬川が氾濫、余波で大洪水。 工場は全滅しさんざんな目に合った。 足利全市も大被害に見舞われ、多数の死者が出たことは今だ記憶に新しい天災であった。

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翌年長男が生まれるのを機会に女房の家の物置を改造して独立、アルミ鋳物を始めたのが私の開業第一歩である。 この道に入って10年、一応希望通り親方になったが商売の道は厳しく無我夢中で働いた。 人も雇い、造れば売れた時代でもやりくりは今と少しも変っていない。 苦しさは覚悟の上、独り立ちの願望も叶い誰にも負けない充実した鋳物工場の拡張と建設を図り将来に向って前進した。

昭和26年、戦後の混迷時代も工業の復興が目覚しくなって来たので、思い通り銑鉄鋳物に転換とは云うものの名ばかり。 工場は馬小屋を改造、コシキ溶解炉はドラム缶でモーターは農業エンジンでと、原材料の他はすべて手作り。 一人で三人前以上の仕事をしなければ銑鉄鋳物が出来なかった。 その頃農業もしていたので大変だった。 女房と義弟を相手に鋳物造り。 時々止まるエンジンで溶解、材料の焚込み、栓抜き、湯運び、湯入れ、型バラシ、鋳仕上げと文字通り二人三脚。 農業と掛け持ち大奮闘。 努力のかいあって売上げも上昇したが病気にもなり十二指腸潰瘍で死ぬ死ぬ病い体を害したのもこの頃から止むを得なかった。
物の無い時代からある時代に移り変わって行くので考えた。 計画とは安全な得意先と将来性のある製造機種を選定することにあると私案の結果、平和産業機械は印刷機械が永続するだろうと確信、着目して東京の野手印刷機の仕事を手掛けた。

今思うにこの指針が図に当ったことは間違いなかった。
日増しに業績の好転を見るに至り、手狭になって来たので現在の土地を取得し、続いて工場50坪と住いを新築し、昭和36年移転し、これを機会に有限会社を設立、従業員も常時10名を越すと共に技術の開発と品質向上を図るため能率のよい設備を考える。 従来の因習を打ち破り明るい近代的鋳物工場建設を日夜鋭意工夫し、事業の継続と発展を図った。 次第に生産も上昇、工場も増設しつつ設備もした。 永い経験を生かしながら特に作業環境の整備推進を修業時代に感じ取ったことを寸時も忘れなかった。

昭和33年、早くも炭酸ガスによる自硬性の造型法を実用化して印刷機の大型化、トリコット準備機、工業ミシン、特殊モーター等産業機械の受注に答えるとともに隣接せる土地も取得し、次々に工場も増築252坪に拡大、関連して事業の見直しを図り設備の合理化を充実、品質管理向上を基にキューポラを始め半自動乍ら各種造型機等も設置、変電所も新設、とくに念願の鋳仕上げにハンガー式ショットプラストを設備、労働環境改善に威力を発揮している。

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従業員の増加に伴い安全衛生面には特に気をつかい、更生施設も二階建・冷暖房完備し、多くの賞も得たことは従業員の協力も見逃せない事実であった。

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