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随想録1979

鋳物一筋40年

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昭和44年、川口の鋳物機械工場試験場へ最新技術を修得するため派遣していた長男が帰社、続いて次男も学卒し経営に参加した。 これを機会に生産機種の変更を決意。 主力機種・印刷機から工作機械に転種、足利に進出の浜井産業と取引開始したのもこの年だった。 もっとも難しいとされている工作機械との出合いだ。
一生をかけてやっと見い出した男の仕事、いや鋳物師の仕事である。 幸い後継者を始め従業員が機種変更に対し全精力を傾け、理解し協力してくれたことは誇りとする所である。
又よきパートナーとして浜井さんで働く他社で見られない人間味のある人達の指導と協力のお蔭と忘却出来ない事実である。 人一倍仕事には負けん気で頑固な私に今日まで得意先始め善意ある多くの友人に恵まれ、応援してくれた方々に深く感謝している。

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夢中で働き通し、思い出すたびに少年期に受けた鋳物造りの感動だけは筆舌に尽くしがたい。 今の若い人で積極的に鋳物に飛び込もうとするものはまず少なく見当らない。 鋳物工場の作業環境からすれば止むを得ないことかも知れない。 昔なら6人で2トン、今では20トン以上造らねば経営が成り立って行かないからだ。 機械化が進んで来たとは言え大変なことだ。
そればかりではない、鋳物工場へ来る若いものに希望があるだろうか。
昔だったら親方になりたいと腕を磨き、努力すればその可能性は充分にあった。 今はどうだろう、独立したいと思っても仲々割り込むスキすら見当らない。 時世だろうか。希望を持てと言う方が無理かも知れない。

昭和48年、小型造型ラインを計画。 別地300坪取得、工場も新築したがオイルショックによる不況で一時中止、長い不況低迷時代が続いた。 人生とは重い荷物を背負って社会の仕組や運命と共に歩んで行くのかも知れないが、この時程痛切に感じたことはなかった。 不況の波をくぐり抜けて来た強気で一徹な私でも人知れず断腸の思いがした。

鋳物師になって40年、独立して30年、この記念すべき昭和54年、長い間の懸念だった環境作りに自動化を決意、工場増改築、大型造型スピード化と粉塵処理を解決するため自硬性砂再生装置 4 in 1自動ライン一式を一挙に設備、機動力を発揮した。

小さな鋳物工場の親方経営でも希望と計画を計って一歩一歩目的に向って前進すれば自ら充実した経営が成り立つと確信する。 このためにはこの先得意先との適正な価格の理解がもっとも必要とされる。 厳しい労働条件と公害に増々業界の滅少、鋳物不足、手不足は考えられる。 相互の発展と繁栄を望み、時代に即応した近代化を進めて行かなければ取り残されるだろう。 基盤を整備するのは今が最大のチャンスである。 激動の経済変動に即応して合理化が山積する中を揺動されながら経営管理を進めてゆかなければならないと云う企業の宿命かも知れない。 資力に乏しく下請零細企業でも骨のある誇りをもった鋳物屋が一人ぐらいあってもいいだろう。 赤々と燃える銑、それが流れ込んで一つの型となる。 このすばらしさは昔も今も少しも変っていない。

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若い人達が鋳物に心血を注ぐ姿を是非見たいものだ。 次代を担う若もの達に期待しつつ意欲と情熱は持ち続けたい。

不透明な80年代を見つめつつ、いつでも安定した企業の確立をなし遂げられたら鋳物造りを天職として来たものだけが知る親方名利につきる。

生涯大切にしたいことは「思いやり」である。鋳物一筋40年を歩み続けて来た男、いや鋳物師の半生録を記念として随想を筆記してみた。
こん后に望みたいことは何時までも現在にあまえず事業を鋭意工夫し発展を望み、変化を考え前進することを信念に持つことだ。 事業のある限り永遠に……。

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